サイコドクター
2002年10月9日今日から竹野内豊の「サイコドクター」
なるドラマが始まった。
その中で高所恐怖症の発作をCGを用いて
取り扱っていたが、おそらく普通の人は
「おおげさなんだよ」とか
「うそくさい」
と思われるであろう。
しかしあの事は本当だ。
僕も時々高所ではないが
発作を感じる時がある。
自分がコンクリートの上に座って
いるのに下に落っこちてしまいそうな
感じとか、ふっと意識が抜けてしまう感じは
本当に嫌なものなんだ。
自分だけが欠陥者のように感じてしまう。
たった一つの不安が
いくつもの不安を呼び込み、引き連れ
そしてがんじがらめにする。
僕の天職ってなんなんだろ。
精神科医なのかもしれない。
なるドラマが始まった。
その中で高所恐怖症の発作をCGを用いて
取り扱っていたが、おそらく普通の人は
「おおげさなんだよ」とか
「うそくさい」
と思われるであろう。
しかしあの事は本当だ。
僕も時々高所ではないが
発作を感じる時がある。
自分がコンクリートの上に座って
いるのに下に落っこちてしまいそうな
感じとか、ふっと意識が抜けてしまう感じは
本当に嫌なものなんだ。
自分だけが欠陥者のように感じてしまう。
たった一つの不安が
いくつもの不安を呼び込み、引き連れ
そしてがんじがらめにする。
僕の天職ってなんなんだろ。
精神科医なのかもしれない。
調子が・・・
2002年10月8日最近めっきり調子悪い。
駅についたら電車が出た後だったり、
駐車違反になるし、携帯なくすし、
それもこれもみんな内定式以来なんだよなぁ。
なんかもらってきたみたいだ。
僕は呪いを信じる。
運命も神も信じる。
しかもその信じると言うのが、
「信じていた方が人生お得」
ということがわかっているからで、
恐ろしく理論、合理的に、冷血に
僕は神さえも自分の手中に収めたいようだ。
そんな自分が嫌でもある。
「でもまた答え探してしまう」by桜井
桜井と僕は非常に似た性格らしい。
駅についたら電車が出た後だったり、
駐車違反になるし、携帯なくすし、
それもこれもみんな内定式以来なんだよなぁ。
なんかもらってきたみたいだ。
僕は呪いを信じる。
運命も神も信じる。
しかもその信じると言うのが、
「信じていた方が人生お得」
ということがわかっているからで、
恐ろしく理論、合理的に、冷血に
僕は神さえも自分の手中に収めたいようだ。
そんな自分が嫌でもある。
「でもまた答え探してしまう」by桜井
桜井と僕は非常に似た性格らしい。
やりたいこと
2002年10月5日やりたい事がいっぱいある。
まず剣道。
そして柔道。
イラストとか絵画。
もちろんジャズ。
そして水泳。
コレを会社に入ってからでも
続けられるだろうか。
たぶん他の人から言わせれば
「何でそんなに手を出すの」
と言うことだろう。
しかし、これらのものは全て一つで
繋がっているんだ。
それは己の精神を磨く事。
最近、どんなに価値観や理想を
高く持っても、どうしようもない
一日もあることに気がついた。
「そんな日でも前進」
と思ってしまう僕は、まだ何も
わかっていないのかもしれない。
まず剣道。
そして柔道。
イラストとか絵画。
もちろんジャズ。
そして水泳。
コレを会社に入ってからでも
続けられるだろうか。
たぶん他の人から言わせれば
「何でそんなに手を出すの」
と言うことだろう。
しかし、これらのものは全て一つで
繋がっているんだ。
それは己の精神を磨く事。
最近、どんなに価値観や理想を
高く持っても、どうしようもない
一日もあることに気がついた。
「そんな日でも前進」
と思ってしまう僕は、まだ何も
わかっていないのかもしれない。
満足の向こう側
2002年9月26日最近、
「やった〜、やり遂げた!」
ってことが多い。
そしてそれまでの過程では、
「止めちゃおうかな、やろうかな」
とシーソーがバッコンバッコン
しているのである。
それでも、どんなに悩んでも
最後には、やってしまうのが自分らしいのだが、
何かを成し遂げてしまったその先に
あるものは一体何なんだろう。
僕は最近、何かを成し遂げた先に
孤独を発見した。
「やらずに悔やむよりもやって悔やめ」
このことは正しいのかもしれない。
でも僕の場合は、成功した後でさえ後悔なのだ。
また次の壁がすぐに迫ってくる。
それは際限なく続く。
その事に、心が痛む。
まるで、息を止めて毎日生きているようだ。
なので今日は学校ズル休みした。
燃え尽き症候群か。
でもギターは相変わらず、弾きまくっている。
ただギター弾きたかっただけかも。
「やった〜、やり遂げた!」
ってことが多い。
そしてそれまでの過程では、
「止めちゃおうかな、やろうかな」
とシーソーがバッコンバッコン
しているのである。
それでも、どんなに悩んでも
最後には、やってしまうのが自分らしいのだが、
何かを成し遂げてしまったその先に
あるものは一体何なんだろう。
僕は最近、何かを成し遂げた先に
孤独を発見した。
「やらずに悔やむよりもやって悔やめ」
このことは正しいのかもしれない。
でも僕の場合は、成功した後でさえ後悔なのだ。
また次の壁がすぐに迫ってくる。
それは際限なく続く。
その事に、心が痛む。
まるで、息を止めて毎日生きているようだ。
なので今日は学校ズル休みした。
燃え尽き症候群か。
でもギターは相変わらず、弾きまくっている。
ただギター弾きたかっただけかも。
本物
2002年9月23日博多ラーメンを食べた。
讃岐うどんを食べた。
アジを釣って、その場で食べた。
サバを釣って、その場で食べた。
どれも本物だった。
本物には香りがあった。
その恍惚なそれに惹かれて、
僕が本物を手にしたときは必ず、
「おっ、これは!」
という驚きがあった。
今日はライブに行った。
その音楽はニセモノだった。
他の皆は楽しんでいた。
それでもいいと思う。
間違ったものなんてない。
しかし、僕はやはり物事はそれぞれ
「答え」を持っていると思う。
今回はその答えは無かった。
ニセモノをニセモノといって何が悪い!
僕は、そんな強気の価値観を
手に入れたようだ。
本物とニセモノの見分け方。
それはやはり、「感動」だろう。
讃岐うどんを食べた。
アジを釣って、その場で食べた。
サバを釣って、その場で食べた。
どれも本物だった。
本物には香りがあった。
その恍惚なそれに惹かれて、
僕が本物を手にしたときは必ず、
「おっ、これは!」
という驚きがあった。
今日はライブに行った。
その音楽はニセモノだった。
他の皆は楽しんでいた。
それでもいいと思う。
間違ったものなんてない。
しかし、僕はやはり物事はそれぞれ
「答え」を持っていると思う。
今回はその答えは無かった。
ニセモノをニセモノといって何が悪い!
僕は、そんな強気の価値観を
手に入れたようだ。
本物とニセモノの見分け方。
それはやはり、「感動」だろう。
たび
2002年9月14日旅に出てきます。
今回の旅で
自分自身を深く見つめ直すつもりです。
自分の反省すべき所
自分の愚かさ
自分の弱さ
そういったものを・・・
というのは冗談で、
フツーに友達に会いに行くだけです。
1週間行って来るので、
日記をごらんになって下さる方々へ
更新はありませんのであしからず
今回の旅で
自分自身を深く見つめ直すつもりです。
自分の反省すべき所
自分の愚かさ
自分の弱さ
そういったものを・・・
というのは冗談で、
フツーに友達に会いに行くだけです。
1週間行って来るので、
日記をごらんになって下さる方々へ
更新はありませんのであしからず
意味を探すこと
2002年9月11日うちの両親は犬を飼っている。
クロとシロがいるが、
もう溺愛である。
父親は会社から帰ってくると、真っ先に犬のもとへ行く。
そして、犬は尻尾を振ってそれを迎える。
僕からしたら、親はバカだと思う。
しょせん犬だし、犬にかかりっきりになる事を
「無駄」と考えてしまう。
でも、それは両親の、彼らの考え方を考えないからであって、
バカにしているからであって、
ちょっと自分に素直になれば、
「誰かに必要とされたいんだな」
とわかる。
そこには意味がある。
親は、
「今日も犬が待っているから早く家に帰ろう」
と思っている。
犬がいる事で自分の心が元気になれる。
そこに意味があるのかはわからない。
僕にはわからない。
でも、彼らにはあるのだろう。
そして僕にも僕だけの意味があるんだろう。
きのう初めて知った事。
相手を敬うのが、尊敬語。
自分を下げて、自動的に相手が上がるのが謙譲語。
どちらも必要な気がした。
クロとシロがいるが、
もう溺愛である。
父親は会社から帰ってくると、真っ先に犬のもとへ行く。
そして、犬は尻尾を振ってそれを迎える。
僕からしたら、親はバカだと思う。
しょせん犬だし、犬にかかりっきりになる事を
「無駄」と考えてしまう。
でも、それは両親の、彼らの考え方を考えないからであって、
バカにしているからであって、
ちょっと自分に素直になれば、
「誰かに必要とされたいんだな」
とわかる。
そこには意味がある。
親は、
「今日も犬が待っているから早く家に帰ろう」
と思っている。
犬がいる事で自分の心が元気になれる。
そこに意味があるのかはわからない。
僕にはわからない。
でも、彼らにはあるのだろう。
そして僕にも僕だけの意味があるんだろう。
きのう初めて知った事。
相手を敬うのが、尊敬語。
自分を下げて、自動的に相手が上がるのが謙譲語。
どちらも必要な気がした。
解決
2002年9月9日色んな人と話した。
色んな人がいた。
イチローの前世は「弓矢の名人」らしい。
そしてオレが、
「そういえばイチローはバッターボックスで
弓を引くような仕草しますよね」
と言ったら、
「へぇ〜、そうなんだ」
と言っていた。
彼は野球には疎いらしい。
彼の言う事は合っているのか。
わからない。
それでも間違っていると決め付ける事は
簡単だろう。
要はこの世は、
「どれだけの愚かな事を信じられるかどうか」
なんじゃあないのか。
僕は、信じる事。謙虚になる事。
そして目をつぶると浮かんでくる僕の希望。
そんなものに賭けていく人生を
歩もうとしか今は思えないんだ。
人生は、よくわからん。
ココリコ
2002年9月8日今日は短くスパッと。
「江川な人」を見た。
松井の打席を討論していた。
松井は、広島黒田の内角の直球によって迷いを持ってしまったらしい。
そして三振に倒れた。
そして江川の格言。
「勝負事は考え過ぎては負けである」
付け加えて、
「過ぎては、ですよ、過ぎては。
考える事はいいんですからね。考え過ぎはよくないです。ハイ」
確かにごもっともだ。
人生も勝負事。ギャンブル。
ならば、考え過ぎは止めよう。
「江川な人」を見た。
松井の打席を討論していた。
松井は、広島黒田の内角の直球によって迷いを持ってしまったらしい。
そして三振に倒れた。
そして江川の格言。
「勝負事は考え過ぎては負けである」
付け加えて、
「過ぎては、ですよ、過ぎては。
考える事はいいんですからね。考え過ぎはよくないです。ハイ」
確かにごもっともだ。
人生も勝負事。ギャンブル。
ならば、考え過ぎは止めよう。
生きる目的
2002年9月7日五木寛之は、
「生きる目的」というクソ本の中でこう言った。
「生きていれば何かが起こるかもしれない。だから生きよう」
と。
僕はそうは思わない。
何かが起こる事を待っていては、もうすでに駄目なんだ。
人生に、休みは必要かもしれない。
「ロングバケーション」と自身に言い聞かせ、
自分を慰める事も必要かもしれない。
時には自分に酔うだろう。
しかし、人生のその休みとは
明らかに進歩への妨げになっている事は疑いの余地は無い。
それぐらい人生と言うものは、「辛いもの」なんだと思う。
時間は待ってはくれないものなんだと思う。
人は言う
「休まなきゃやってられませんよ」と。
確かにそうだ。
ではなぜ人は、そう考えるのか。
答えは、簡単だ。
人間は「自分の都合のいいように考える生き物」だからだ。
そしてこんな僕の考え方にも反対をする人もいる。
「あなたの考えは間違っている」と。
そして、ぼくもその人も皆、自分勝手な解釈で生きている。
僕は思う。
「人生は楽しく生きるものだよ。だから楽しもうよ」
という人がいる。
この言葉が言えるだけでその人はもう幸せなんだ。
初めから楽しく生きられていれば、人はその方向に進むはずだ。
しかし、現実社会の中での人は違う。
なぜか。
それは、自分自身の悩みの問題がによって楽しく生きられないのだ。
その人生を楽しく生きられていない人に向かって
「楽しく生きよう」
というのは明らかに人生の真実などではない事がわかった。
そもそも人生の真実なんぞを考えた時には、
自分が解いた方程式の答えは、
自分自身の解釈に合っている物を選択する。
人ってそんなもんだ
つまりそこには、
人それぞれが都合のいい
自分の一番楽な
自分にとって有益な
自分の優越感を満たす
そんな答えを選ぶんだ。
だから人は、例え最愛の人を交通事故で無くしても
「この世の真実は、破壊ではない」
と信じられる。
もしかしたら答えは破壊かもしれないのに、
「そうではない」
と自分に言い聞かせる自分がいる。
結論は、
この世の目的は「楽しく生きる事」なんかじゃあない。
楽しく生きようと思っている人はそれでいい。
それはそれで幸せな人なんだ。
前世での行いがよかったのかもしれない。
いや、僕は今は、前世や神というモノも怪しいと感じ始めている。
そもそも神なんていないのでは
前世なんて無いのでは
転生なんてありえないのでは
ビッグバンなんか無かったのでは
宇宙は無からなんか始まらなかったとすれば
子宇宙や孫宇宙なんて存在しないのでは
自分達の宇宙がたった一つのもので他に存在はしないのでは
そもそも宇宙は膨張と収縮を繰り返すただのモノなのでは
色んな「?」が今僕の中に芽生えている。
そして本当に生きる意味とは、
それは自分の、自分自身の悩みを解決する事だろう。
そして、その先に「幸せな自分」がいるのだ。
だから結果として「楽しく生きられる」かもしれない。
しかし、「楽しく生きることが全て」という
今の時代の風潮は明らかにおかしい。
楽しく生きる前にやる事があるだろう。
問題を先送りして、酒を飲んでいても一時の
楽しさは味わえる。
しかし、そこに永遠は無い。
自殺をしてしまう人がいる。
自分自身の問題に、自分で手が追えなくなったのだ。
コレは責められない。
こういうこともあるんだ。
「がんばれ」や「なんとかなるさ」なんて
クソくらえだ。
なんともならないのである。
前日の松井秀樹の話に戻るが、
本当に松井は、ここ5年くらい、いやもっと前から散々、
「初球から打っていけ」
と、長島前監督、原前コーチ、アホ解説者共に言われつづけてきた。
そして実力では明らかに劣る清原と比べられ
「清原の方が4番に向いている」
「清原の方が存在感がある」
「清原の方が頼りになる」
といわれ続けて来た。
ところが最近の松井の活躍はどうだろう。
まさに何かを掴んだ、という表現がピッタリとはまるではないか。
彼はバット理論を極めつつある。
彼は言う
「初球から打てと言われて打てたら、初めから打っている。
でも今まで、長い間、自分が打つ体勢ができていなかった。
だから、初球から打てなかった。
だけど、今は自分が打てるという確信がある。
そういう状態でいる。
つまりは、根拠があって初めて人は前に出れるんです」と。
「楽しく生きよう」というほどバカらしいものは無い。
正しくは
「悩みを解決しよう。そして、その先に待っている自分と楽しく生きよう」
なのである。
やはりこの世の真実は、理屈、理論、物理なのかもしれない。
ジャズの終わり
2002年9月6日矢掘孝一の「ジャズギターの常套句」というDVDを買った。
その中での彼は、
とても良さそうな人で、
もし自分が女だったら、結構タイプな男である。
優しそうで、それでいて
こんなビデオまで出しているのだから、
ジャズ会きっての有望な人だろう。
いい人で仕事ができる男
最高ではないですか。
しかし、だ。
しかしと言いたい。
ビデオの中での彼の「枯葉」の演奏はなんだ。
あれはなんだ。
ただダラダラと4分の音列を繰り返している
だけではないか。
あれは音楽ではない。
俺はまだジャズやってるから、
「あ、ここでケーデンスなのね」
とわかってあげられるが、素人が見たら
なんにも面白くない。とても感動は無い。
だからジャズ=大人の雰囲気
とか、ジャズ=お酒の雰囲気
とか訳のわからない「雰囲気」で捉えてしまう、
捉えるしかない音楽になってしまった。
音楽を雰囲気で捉える事
―それは、感動がないからだろう。
ジャズは昔の音楽でもなんでもない。
大人の雰囲気でもない。
お酒でもない。
ジャズは、音楽を発展させるという
重大な使命を司った
この世で唯一の音楽なんだ。
そこには戦いがある。
素晴らしい音楽は常に、危険である。
その危険な感じを失ってはいけない。
矢堀のやっていることは
高度なのかもしれない。
モード奏法なのかもしれない。
もしくはコルトレーンチェンジなのかもしれない。
それでも、そういう名前に酔ってはいけない。
「オレってコルトレーンチェンジできるんだぜ」
というのはホントに意味が無い事だ。
聞こえるものが全て。
何を使っているから、
何を持っているから、
何を買ったから。
そんなものどーでもいい。
今、自分が生み出せるもの、
それこそに価値があるんだ。
であるからこそ、僕は松井秀樹に憧れる。
松井は今まで、散々こう言われてきた。
「初球から打っていけ」と。
しかし松井は言う。
「打てと言われて、打てるものではない。
打てるという根拠があって初めて前に出れる」
気合、根性、心、魂、やる気、
そんなものは当てにならない。
この世の真実は、
仮定と確信と継続なんだ。
ロンバケ
2002年9月4日今日久々に「ロングバケーション」を見た。
昔、ビデオで借りてダビングしておいたものを、
本棚の置くから引っ張り出してきて、見た。
それもこれもまぁ、ピアノを弾くために、
自分に酔うためにセナの姿でも見ようかと。
そんな感じです。
あのドラマはやっぱいい。
最近のドラマがなぜ面白くないか。
やはりそれは「照明」に尽きるだろう。
なぜに「渡る世間は鬼ばかり」の厨房はあんなに
明るいのか。
実際のお店は、居心地がいいように
照明は落としているではないか。
なぜに大河ドラマの「信長」に絵的に
信憑性が無いか。
なぜにあの時代はあんなに明るいのか。
着物の派手な色使いも、昔は「色褪せたイイ感じ」であったのではないのか。
畳にしたって、襖にしたってなんかうそ臭い。
そしてそのうそ臭さが、俳優にまで影響を
及ぼしてしまっている。
カツラの付け根が見えるではないか。
なぜに「暑いなぁ〜今日は」
という会話なのに、俳優は汗ひとつかいていないのだ。
この世は希薄であると人は言う。
その通りかもしれない。
この世は滅亡に向かって走っていると、
人は期待する。
現実的にそうだろう。
人は希望と言うものにすがって生きている。
それしかないからだろう。
人は自分を正当化する。
みんな自分が好きなんだろう。
人は群れる。
みんな寂しいんだろう。
人は愛する。
自分を抱きしめて欲しいんだろう。
そんな世の中で、矛盾が無い事がおかしい。
僕は、理想を探していた自分とは、
どこか変わってしまった。
全てを受け入れるようになってしまった。
尾崎豊がどうしても手に入れられなかったもの。
―「心の余裕」
僕はそれを手にした途端に、世界がぼやけ始めた。
またはっきりと見えなくなった。
でも心に温かいものが芽生えた。
滅亡を望まなくなった。
理想を置いてきてしまった。
なぜならば、理想の先に待っていたものは哀しみ
だったから。
僕は、現実のなかにまた違った形あるものを探そう
としている。
そして、その自分が探そうとしているものが、
「自分の思い通りじゃなくてもいい」
と思えるまでになってしまった。
負の方向の力が、正の方向へ変わった時。
そこからは、周りが砂漠で囲まれた長い
道のりが待っているだけだ。
そして、僕はその道をまっすぐ見つめて、
歩き始める準備ができた。
それは心の問題だ。
その道があまりにも平坦だから、
いままでは周りの砂漠を歩きつぶした。
「もっといいことはないか」って。
でも僕の人生は決まっていたような気がする。
僕は、自分のやれることしかやらないと言う事に
反抗してきた。
僕は、この世界の全てを変えたいと思って
いたんだ。
でも、それは難しい、と思うようになった。
なぜならば、
それには人が動かないとダメだからだ。
そしてその人を動かすと言う人徳が
自分に無ければダメなんだ。
そしてその人徳は、どうやら僕には無いらしい。
そしてその無い事にたいして僕は、
全く残念な気持ちにならなかった。
「勝ち組み」「リーダー」「サバイバル」
僕は、世の中はそうではないと言う
新しい価値観で出発する事にした。
その「優れた人」の項目の先に待ってるものは、
僕には哀しみであると言う答えを、
バーチャルに描き出す事ができた。
これは、この世の真実とか答えとかの話では
きっと無いだろう。
それはあくまでも僕自身にとってのことなんだ。
僕自身にとっての答え、真実、はっきりとした世界。
それは世間とは違ってもいいんだ。
そしてそっと胸の中でしまっておけばいい。
それは希薄な人間関係なのかもしれない。
しかし、僕にはもうわかる。
理屈じゃあないんだ。
その場の空気でフレーズは変わる。
変わらなければならない。
そして変わることが自然なんだ。
僕は、きっと幸せすぎて
大切なものがわかりずらくなったから、
歌いたい言葉も見つからなくなってしまったんだろう。
僕の先に見えるものは、たった1つの光の点だけだ。
昔、ビデオで借りてダビングしておいたものを、
本棚の置くから引っ張り出してきて、見た。
それもこれもまぁ、ピアノを弾くために、
自分に酔うためにセナの姿でも見ようかと。
そんな感じです。
あのドラマはやっぱいい。
最近のドラマがなぜ面白くないか。
やはりそれは「照明」に尽きるだろう。
なぜに「渡る世間は鬼ばかり」の厨房はあんなに
明るいのか。
実際のお店は、居心地がいいように
照明は落としているではないか。
なぜに大河ドラマの「信長」に絵的に
信憑性が無いか。
なぜにあの時代はあんなに明るいのか。
着物の派手な色使いも、昔は「色褪せたイイ感じ」であったのではないのか。
畳にしたって、襖にしたってなんかうそ臭い。
そしてそのうそ臭さが、俳優にまで影響を
及ぼしてしまっている。
カツラの付け根が見えるではないか。
なぜに「暑いなぁ〜今日は」
という会話なのに、俳優は汗ひとつかいていないのだ。
この世は希薄であると人は言う。
その通りかもしれない。
この世は滅亡に向かって走っていると、
人は期待する。
現実的にそうだろう。
人は希望と言うものにすがって生きている。
それしかないからだろう。
人は自分を正当化する。
みんな自分が好きなんだろう。
人は群れる。
みんな寂しいんだろう。
人は愛する。
自分を抱きしめて欲しいんだろう。
そんな世の中で、矛盾が無い事がおかしい。
僕は、理想を探していた自分とは、
どこか変わってしまった。
全てを受け入れるようになってしまった。
尾崎豊がどうしても手に入れられなかったもの。
―「心の余裕」
僕はそれを手にした途端に、世界がぼやけ始めた。
またはっきりと見えなくなった。
でも心に温かいものが芽生えた。
滅亡を望まなくなった。
理想を置いてきてしまった。
なぜならば、理想の先に待っていたものは哀しみ
だったから。
僕は、現実のなかにまた違った形あるものを探そう
としている。
そして、その自分が探そうとしているものが、
「自分の思い通りじゃなくてもいい」
と思えるまでになってしまった。
負の方向の力が、正の方向へ変わった時。
そこからは、周りが砂漠で囲まれた長い
道のりが待っているだけだ。
そして、僕はその道をまっすぐ見つめて、
歩き始める準備ができた。
それは心の問題だ。
その道があまりにも平坦だから、
いままでは周りの砂漠を歩きつぶした。
「もっといいことはないか」って。
でも僕の人生は決まっていたような気がする。
僕は、自分のやれることしかやらないと言う事に
反抗してきた。
僕は、この世界の全てを変えたいと思って
いたんだ。
でも、それは難しい、と思うようになった。
なぜならば、
それには人が動かないとダメだからだ。
そしてその人を動かすと言う人徳が
自分に無ければダメなんだ。
そしてその人徳は、どうやら僕には無いらしい。
そしてその無い事にたいして僕は、
全く残念な気持ちにならなかった。
「勝ち組み」「リーダー」「サバイバル」
僕は、世の中はそうではないと言う
新しい価値観で出発する事にした。
その「優れた人」の項目の先に待ってるものは、
僕には哀しみであると言う答えを、
バーチャルに描き出す事ができた。
これは、この世の真実とか答えとかの話では
きっと無いだろう。
それはあくまでも僕自身にとってのことなんだ。
僕自身にとっての答え、真実、はっきりとした世界。
それは世間とは違ってもいいんだ。
そしてそっと胸の中でしまっておけばいい。
それは希薄な人間関係なのかもしれない。
しかし、僕にはもうわかる。
理屈じゃあないんだ。
その場の空気でフレーズは変わる。
変わらなければならない。
そして変わることが自然なんだ。
僕は、きっと幸せすぎて
大切なものがわかりずらくなったから、
歌いたい言葉も見つからなくなってしまったんだろう。
僕の先に見えるものは、たった1つの光の点だけだ。
適当
2002年9月3日なぜに、僕がジャズをやるのか
その答えが今日なんとなくわかったような気がする。
それは、中学生や高校生に勉強を教える際に
よく世間で言われる事と似ている。
「何か一つでも100点が取れると、
後の教科も面白いように100点取れるよ」
というものだ。
これはたぶん僕の推理では
「一回山を登ってしまえば、次登るのは楽と言う法則」だろうか。
もう一回登るのは楽だし、仮に違う山でも
「山にそんなに違いはねーだろ」
というものか。
ともすればこの世の中の大体の事は、
たった一つのものとすごく結びついて、関連しあって
存在していてもイイことになる。
コレが僕がジャズをやる理由。
ジャズをやると言うのは、アドリブをやると言うのは
本当に自由になるためには、前持った経験が必要である。
次々と斬新なフレーズが飛び出す事はありえない。
ほぼ前に弾いた事があるフレーズになっているわけだ。
そして、練習は恐ろしく地味。
その前もった経験を強制的に自分に与えるのだ。
同じことを何度も繰り返す。
他人のいい所を真似る。
それをとにかく繰り返す。
そこに「意味」や「感情」が入り込んではいけない。
自分はロボットなのだ。サイボーグなのだ。
使いッ走りなのだ。
そこまで心が落ちて、初めてジャズと向き合える。
謙虚さがないとジャズは習得できない。
コレがこの世で当てはまるのか。
この同じことを何度も繰り返して、
自分の経験を強制的につくり、そして実行に移す。
これが社会で通用するのかを知りたい。
それの証明は、
僕がジャズを極めた時にわかるだろう。
そして僕がそれを極めたとき。
僕はもう一個の真実を知ることになる。
その答えが今日なんとなくわかったような気がする。
それは、中学生や高校生に勉強を教える際に
よく世間で言われる事と似ている。
「何か一つでも100点が取れると、
後の教科も面白いように100点取れるよ」
というものだ。
これはたぶん僕の推理では
「一回山を登ってしまえば、次登るのは楽と言う法則」だろうか。
もう一回登るのは楽だし、仮に違う山でも
「山にそんなに違いはねーだろ」
というものか。
ともすればこの世の中の大体の事は、
たった一つのものとすごく結びついて、関連しあって
存在していてもイイことになる。
コレが僕がジャズをやる理由。
ジャズをやると言うのは、アドリブをやると言うのは
本当に自由になるためには、前持った経験が必要である。
次々と斬新なフレーズが飛び出す事はありえない。
ほぼ前に弾いた事があるフレーズになっているわけだ。
そして、練習は恐ろしく地味。
その前もった経験を強制的に自分に与えるのだ。
同じことを何度も繰り返す。
他人のいい所を真似る。
それをとにかく繰り返す。
そこに「意味」や「感情」が入り込んではいけない。
自分はロボットなのだ。サイボーグなのだ。
使いッ走りなのだ。
そこまで心が落ちて、初めてジャズと向き合える。
謙虚さがないとジャズは習得できない。
コレがこの世で当てはまるのか。
この同じことを何度も繰り返して、
自分の経験を強制的につくり、そして実行に移す。
これが社会で通用するのかを知りたい。
それの証明は、
僕がジャズを極めた時にわかるだろう。
そして僕がそれを極めたとき。
僕はもう一個の真実を知ることになる。
今日の日記
2002年9月1日最近ほんっと家こもってるなぁ。
まぁ家から出ないでギターばっかやってるんだけど、
確実にうまくなっているから
問題はないのだが。
それでも渋谷とか新宿とか、
そういった都会で思い切り遊んでみたいという
思いもある。
でも、今の自分にできる事、
そしてやるべきことはきっと「ギター」
なんだろう。
僕には目標があって、
4月から新入社員として働くわけだが、それでも
会社が早く終わった日などは、
ストリートでやりたい。
ストリートジャズで鬱憤を晴らしたいという思い、
そのイメージがある。
そんなイメージだけが、今日も僕を支えてるんだ。
音楽は死んでいると思う。
それが僕が音楽家を志さなくなった、
一番大きな理由かもしれない。
「お前が変えろよ」
と言われるかもしれない。
でも僕には、そんな力はないし、
それは決して自信がないだとか、臆病である
だとかいう次元ではない。
自分の才能に諦めを持つ事。
放棄する事。
敬遠する事。
その事は決して、間違いじゃあない。
妥協かもしれない。
あいまいかもしれない。
混沌としていて、そこにははっきりと
線引きがしていないかもしれない。
でも、世界はそれで回っているんだ。
その事に気付くのにずいぶん遠回りしてしまった。
でも、遠回りをしたおかげで僕は僕の
「本当にやりたいこと」
が見えたんだ。
僕は今は誰のために生きているのでもない。
僕は僕自身のためだけに生きている。
そして、僕自身を救うために落ちぶれなければならない。
僕自身を救うために、社会からはみ出さねばならないなんて
なんて、この世は面白いんだろう。
やっと自分自身がわかってきたようだ。
Everything
2002年8月30日ミスチルの「Everything It’s you」と言う曲の中に
幸せすぎて大切なものが わかりづらくなった今だから
歌う言葉さえも 見つからぬまま 時間に終われ途方に暮れる
という歌詞がある。
今の僕は、まさにこんな心境なのかもしれない。
一人で塞ぎこんでいた世界の中から、
世間に飛び出していかねばならないとあって、無理にでも飛び出した。
そこは確かに虚像が渦巻く、表面だけの世界かも知れないけど、
それはそれでうまく周っている。
そしてその世間の波に合わせるように生きてみると、
「なんて今までの自分がちっぽけだったんだ」
とは思わないけど、
「こんな世界もいいのかもしれない」
とは思うようになれた。
そして、その世界に合わせて生きていくうちに、
自分の中で「どうでもいいあいまいさ」が徐々に入り込んできて、
今は、僕は
たぶん幸せすぎて何もわからない状態なんだろう。
内閉的だった前と比べても、前よりも「答え」がわかってしまった分、
「何かを言いたい」「この世の中はこんなに汚い」
という僕自身の歌う言葉さえも今は見えなくなってしまった。
本は言う。
「どんなに悪い歴史の中でも、全てが悪かった時代はけっしてない」と。
王国が繁栄すれば、奴隷の中から英雄が生まれる。
黒人差別があったから、ブルースが繁栄した。
日本に原爆が落ちた。
だからこそ、日本は平和な国つくりを訴え続けなければならない。
じゃあ、僕のこの平和な気持ちは、
この気持ちからは、きっと悪が生まれ、
そして内省的だった僕の心からは、きっと光が生まれるはずじゃあないのか。
僕は、直感としてこれを感じる。
人生の成功の秘訣は
「明るく、礼儀正しく、人を尊重する事」
これに間違いはない。
僕もそう思う。
そして僕は、これらの事を日々達成しながら、成功の道をたどる
自分の姿もイメージできる。決して悪くはない。
いい車。いいマンション。いい女。いい子供。いい夫。
でも、僕はアウトローなんだろう。
9回ウラ、2アウト満塁。
1−0で勝っている。
バッターは、直球狙いが見て取れる。
勝負に勝つならばスライダーか、はたまたフォークか。
しかし、と僕は思う。
「僕はここに来るまでに日々闘って、自分に勝ってきた。
辛い日々もあった。今思いだしても胸が震える瞬間がある。
思い出して、悲しくて、一人で
孤独を抱えて、泣きながら朝を迎えた事もある。
そして 色々なものを犠牲にしてきてしまった。
その日々が正しかったものかどうかはわからない。
僕が欲しいのは結果じゃあない。相手を討ち取ったと言う結果はいらない。
僕が欲しいのは自分が正しかったかどうか、だ。
経過だ。
経過の正しさの証明が欲しい。
それが手に入れば、今までの自分にちょっとでも慰めや同情をする事が
できるだろう。
その為にここで打者を討ち取る事が、自分の今までを証明する事になるだろう。
その証明に必要なものは
相手が直球狙い。
上等じゃあないか。」
そして僕は、ストレート狙いのバッターにストレートを投げ込むだろう。
物理的な計算で言えば、打たれる確率は高い。
その事自体は、2度と戻れない暗黒の世界への入り口なのかもしれない。
それでもいい。
答えはきっと一つじゃない。
自分が考えて、闘った。
賭けたんだ、自分に。
人生最大のギャンブルに。
やはり人生はギャンブルだ。
そして僕は悟る。
「生きる意味ってあるんですか?」
「答えはある。
人は人生最大のギャンブルをするための”賭けの場”を作るために
生きているんだ。そして、それが生きるという真の目的なんだ。
その”場”を作るために、人は悲しんだり、笑ったり、苦悩したりするんだ」
この世の果てに
2002年8月27日昨日、飲みがあった。
なんでみんなあんなに、笑顔なんだろう。
なんでみんな、あんなに幸せを感じられるんだろう。
どうしてみんな、疑問を、持たないのか。
僕の中には2人の自分がいる。
一人は自分の悩みを知っている自分。
もう一人は、将来の完璧なはずの自分。
飲みの中で、僕は決して
みんなから離れて冷笑を浮かべていたわけではない。
飲みの中心に突っ込んでいく自分がいた。
中心で誰よりも笑っていた自分がいた。
誰よりも幸せなはずの顔をしていた自分がいた。
しかし、それは本当の僕ではない。
僕は、自分の片方しか見せていない。
もちろん、両方を見せる必要なんてのは全くない。
見せる必要もないし、
見せられる相手でもないことはわかった。
影がない。
なぜかみんなには影がない。
みんなの顔を想像するとき、
いつもそれは笑顔なんだ。
そして、その中でも飛び切りの笑顔の人を
皆は賞賛した。
絶賛した。勝ち組だと手を叩いた。
僕は思う。「本当か」と。
僕は、この世間という名の社会に出て、
きっと仮面を被って生きていくだろう。
その事自体が悪いとは思わない。
だって、僕の中のもう一人は
「世間にマッチした人間」なのだから。
しかし、退職するまでいようなどと
みんなが思うようには、僕は思わない。
人生は賭けだ。ギャンブルだ。一かバチかだ。
そして、機が熟した時に、
僕は僕の中に溜まった負のエネルギーを放出させる。
そして振り子理論によって
その膨大なエネルギーは、正の方向へ光の速さで変換され、
世間をあっと言わせられるものに
急成長しているはずだ。
そのエネルギーをこの世間に解き放つと
それは「犯罪」となっていくだろう。
しかし、と僕は違う。
なぜならば、
僕は運命論者であり神の存在を信じるものだからだ。
神のために僕は、犯罪は犯せない。
きっと過去で多大な犯罪を犯してきた償いを
この現世で僕は行っているんだ。
2の舞は避けなければならない。
僕は、そのエネルギーを作品へと結びつける。
その時に、僕の生きてきた負の遺産が、
証明されるときが来る。
自分の生きる意味を問うことが、この人生、この世で
正しい事なのかどうか、
そんなことはどうでもいいのかもしれないけれど、
僕は、自分の天命と才能を知ったんだ。
僕は僕という人物を知ることで、
それ自体がもうすでにビックバンなんだ。
僕は本当に底知れなく深い。
昨日は心のそこから愛していた人を、
今日は簡単に憎めてしまう
そして本当に人を愛せない。
しかし、答えは愛だ。この世に愛と言う答えを神はちゃんと用意した。
そして才能。
それはひらめき。直感、イメージ。
僕の中の脳の一部で、シナプスの密なところを発見する事。
それは「生きる意味の答え」の一つになり得る
「この世の真実の一つ」なんだ。
そしてそれは、大事な本当に大事なことなんだ。
なんでみんなあんなに、笑顔なんだろう。
なんでみんな、あんなに幸せを感じられるんだろう。
どうしてみんな、疑問を、持たないのか。
僕の中には2人の自分がいる。
一人は自分の悩みを知っている自分。
もう一人は、将来の完璧なはずの自分。
飲みの中で、僕は決して
みんなから離れて冷笑を浮かべていたわけではない。
飲みの中心に突っ込んでいく自分がいた。
中心で誰よりも笑っていた自分がいた。
誰よりも幸せなはずの顔をしていた自分がいた。
しかし、それは本当の僕ではない。
僕は、自分の片方しか見せていない。
もちろん、両方を見せる必要なんてのは全くない。
見せる必要もないし、
見せられる相手でもないことはわかった。
影がない。
なぜかみんなには影がない。
みんなの顔を想像するとき、
いつもそれは笑顔なんだ。
そして、その中でも飛び切りの笑顔の人を
皆は賞賛した。
絶賛した。勝ち組だと手を叩いた。
僕は思う。「本当か」と。
僕は、この世間という名の社会に出て、
きっと仮面を被って生きていくだろう。
その事自体が悪いとは思わない。
だって、僕の中のもう一人は
「世間にマッチした人間」なのだから。
しかし、退職するまでいようなどと
みんなが思うようには、僕は思わない。
人生は賭けだ。ギャンブルだ。一かバチかだ。
そして、機が熟した時に、
僕は僕の中に溜まった負のエネルギーを放出させる。
そして振り子理論によって
その膨大なエネルギーは、正の方向へ光の速さで変換され、
世間をあっと言わせられるものに
急成長しているはずだ。
そのエネルギーをこの世間に解き放つと
それは「犯罪」となっていくだろう。
しかし、と僕は違う。
なぜならば、
僕は運命論者であり神の存在を信じるものだからだ。
神のために僕は、犯罪は犯せない。
きっと過去で多大な犯罪を犯してきた償いを
この現世で僕は行っているんだ。
2の舞は避けなければならない。
僕は、そのエネルギーを作品へと結びつける。
その時に、僕の生きてきた負の遺産が、
証明されるときが来る。
自分の生きる意味を問うことが、この人生、この世で
正しい事なのかどうか、
そんなことはどうでもいいのかもしれないけれど、
僕は、自分の天命と才能を知ったんだ。
僕は僕という人物を知ることで、
それ自体がもうすでにビックバンなんだ。
僕は本当に底知れなく深い。
昨日は心のそこから愛していた人を、
今日は簡単に憎めてしまう
そして本当に人を愛せない。
しかし、答えは愛だ。この世に愛と言う答えを神はちゃんと用意した。
そして才能。
それはひらめき。直感、イメージ。
僕の中の脳の一部で、シナプスの密なところを発見する事。
それは「生きる意味の答え」の一つになり得る
「この世の真実の一つ」なんだ。
そしてそれは、大事な本当に大事なことなんだ。
夏休み
2002年8月25日オレの理想な夏休みは
1.ギターを弾きたい分だけ弾きまくり、当然寝るのは午前様。
2.もちろん寝坊。でもタッチは見たいから10:30起床
3.そのまま朝飯兼昼飯を食いながら「いいとも」を見る
4.惰性で「ごきげんよう」も。
5.そのまま惰性で2:40からの「ビーチボーイズ」も見る。
6.「おっ」と気付いたら、もう6時か。
7.暇なのでベッドで本読む。んで、眠くなって寝る。
8.10時まで寝てしまった。起きたらNステのスポーツをチェック。
9.そのまま惰性で2時くらいまでテレビ見つづける。
10.ギター弾かなきゃ、レッスンの課題しなきゃと思いつつもできない。
11.4時ころ眠くなったので、また寝る。
この繰り返し。
最高の一日だね。
でも落ちぶれているけど。
今日はそんな感じだった。
バイトも終わったし、ギター弾きたいから
家にいるんだけど、今日壁ができてさ。
それは、
マイナー?m―?―?の所は自分では
メロディックマイナーが一番好きだということが判明。
かつ、メロディックマイナーのフレーズは
マイナー?m―?―?がはまる所には
はまるけど、その逆は起きない事が判明。
結果
「じゃあ、全部メロディックマイナーでいいじゃん」
って感じ。
そしてその資料集めにメロディックマイナーの
語集を漁ってみるも、
どれもかれもみんな「?m―?―?」リックとか
なんとかなってる。
メロディックマイナーは、マイナーだけに
マイナーな存在らしい。
そんなこんなで、
ギター弾きたいのにタンスの中とか、
戸棚とか探して資料を集めようとするが、
この暑さで嫌気が差し、ふて寝。
んで起きたら、寝てしまったことに自己嫌悪。
もうやる気ない。
んで、今午前1時だが
「耳コピした方が早え〜よ」
ということに気がついた。
それでも明日は飲みなので、わざわざ東京に
行かなきゃいけない。
めんどくさくなってきた。
でも、今やりたい。耳コピしたい。でも時間ない。
そんなこんなで日記書いてます。
結論は出ず。
明日どんなカッコで行けばいいのかも悩む。
適当でいいのかも知れんが、合コンに限りなく
近いのでここはキメテ行きたい。
でも、それも面倒。
この暑いのに長ズボン着ていくのがバカ。
だから短パンでいいや。
かつ、黒いT−シャツで行こう。
それでも、なんかアクセが欲しい。
金属ではなくて、なにかオリエンタルなもの。
そして帽子をかぶっていくかどうかが悩む。
俺は最近短髪にしたので、
「あれ?髪切ったんだ」
と言われたいのだ。女の子から。
それが帽子をかぶると、見えないジャン。
かつセットできないから
ペシャンコになってキモクなる。帽子脱げない。
どうしよう。
イメージは中居君がいいのに。
まぁとりあえず、途中上野で降りて買い物行く事に決定。
最後に哲学。
「継続は力なり」
これは真実の一つだ。
ヒッキー
2002年8月24日今日は一日ギターだった。
部屋にこもって、
「どうして12時間も椅子の上から離れないでいるのか」
振り返ってみると不思議だが、
それでもギターを弾くという行為から考えれば、
12時間=短い
と言えるだろう。
明日もヒッキーだろう。
明後日は飲み。
明々後日は音楽のレッスン。
消えた僕の好きな人とは、
もう永遠に会えないということは
僕の中で解決していない。
だって夢に出てくるもん。
彼女から携帯に電話が掛かってくる。
その着信には「ミナミ」という文字が見える。
そんなイメージを持ってしまう僕が
おかしいのかもしれない。
でも、これがデジャブであって欲しい。
僕の夏休み前のささやかな夢
「この夏は彼女を作って、そして2人で
静かなお寺で線香花火をするんだ」
そんな夢も儚く崩れ落ちていく。
それに悲観的になってはいけない。
「あ〜やっぱりダメだった」と思ってはいけない。
「またいつか来るさ」と思える。
今の僕はかなりのポジティブ思考だ。
僕は扉の向こうをノックした。
やっと音楽話。
2002年8月23日今日はずっとギター弾いてた。
僕はもうプロを諦めて、半年が経つ。
それからはやはり練習時間は減った。
でも、音楽をより楽しめるようになった。
当然、音楽の中身もより素晴らしいものになっている。
なぜならば、
音楽とは人の心を音で表すという行為だからだ。
僕の友達はプロ思考が多い。
そしてその友達に僕は聞く。
「最近練習してる?」
「あんましてないね〜」
「練習しなきゃ、弾けないべ」
「おれは感覚で弾いているから」
「あ、そう、そりゃいいね」
「うん、まぁね」
こんな会話です。
たぶん僕のほうがプロに近いと思う。
なれると思う。
でも、ならない。
僕がプロになっても、2流止まりだ。
僕は新しい事が好きだ。
その新しい事は音楽ではできない。
音楽はもう死んだんだ。
それは明らかだ。
音楽は、今後「こういうジャンル」
とかという話にならないだろう。
「ジェフベックは最近、ラテンをやっているらしいぜ」
そしてラテンのギターを聞きたいと思えば
ジェフベックのCDを手に取る。
つまりは、
もう誰もがラテンなんてやってるんだ。
HMVのラテンコーナーに行く事さえ、
バカバかしく思えてくる。
僕は人から
「何是そんなに練習するの?」と言われる。
良く言われる。
なぜか。
下手だから。
ギターを7年もやってきてまだ全然わかっていない。
この「わかる」と言う行為はおもしろい。
頭でわかっているなら、僕はかなりの理解者だろう。
でも体でわかっていない。
だからまだまだ、だ。
でも僕の根幹を支えているのはイメージだろう。
うまくなったときの自分のイメージ。
プロの先生は良く言う。
「もう練習はしない」と。
練習をしないでもいけるレベルがあるらしい。
僕にはそれが信じられないが、
自分よりも先生のほうが圧倒的にうまいので、
その言葉も真実のような気がする。
それでは、
そのギターを人生に当てはめたらどうなるのか
「もう人生で学ぶ事はない」
こんなレベルはあるのだろうか。
僕は「たぶんある」と思う。思いたい。
僕にはそれがイメージできる。
だからこそ今、僕は走っている。
悩んでいる。孤独でいる。
その孤独をギターにぶつける。
ピアノを連打する。
そしてそっと、心が休まるんだ。
僕はもうプロを諦めて、半年が経つ。
それからはやはり練習時間は減った。
でも、音楽をより楽しめるようになった。
当然、音楽の中身もより素晴らしいものになっている。
なぜならば、
音楽とは人の心を音で表すという行為だからだ。
僕の友達はプロ思考が多い。
そしてその友達に僕は聞く。
「最近練習してる?」
「あんましてないね〜」
「練習しなきゃ、弾けないべ」
「おれは感覚で弾いているから」
「あ、そう、そりゃいいね」
「うん、まぁね」
こんな会話です。
たぶん僕のほうがプロに近いと思う。
なれると思う。
でも、ならない。
僕がプロになっても、2流止まりだ。
僕は新しい事が好きだ。
その新しい事は音楽ではできない。
音楽はもう死んだんだ。
それは明らかだ。
音楽は、今後「こういうジャンル」
とかという話にならないだろう。
「ジェフベックは最近、ラテンをやっているらしいぜ」
そしてラテンのギターを聞きたいと思えば
ジェフベックのCDを手に取る。
つまりは、
もう誰もがラテンなんてやってるんだ。
HMVのラテンコーナーに行く事さえ、
バカバかしく思えてくる。
僕は人から
「何是そんなに練習するの?」と言われる。
良く言われる。
なぜか。
下手だから。
ギターを7年もやってきてまだ全然わかっていない。
この「わかる」と言う行為はおもしろい。
頭でわかっているなら、僕はかなりの理解者だろう。
でも体でわかっていない。
だからまだまだ、だ。
でも僕の根幹を支えているのはイメージだろう。
うまくなったときの自分のイメージ。
プロの先生は良く言う。
「もう練習はしない」と。
練習をしないでもいけるレベルがあるらしい。
僕にはそれが信じられないが、
自分よりも先生のほうが圧倒的にうまいので、
その言葉も真実のような気がする。
それでは、
そのギターを人生に当てはめたらどうなるのか
「もう人生で学ぶ事はない」
こんなレベルはあるのだろうか。
僕は「たぶんある」と思う。思いたい。
僕にはそれがイメージできる。
だからこそ今、僕は走っている。
悩んでいる。孤独でいる。
その孤独をギターにぶつける。
ピアノを連打する。
そしてそっと、心が休まるんだ。
変化
2002年8月22日僕は、理論の行く末に平和はあるのかもしれないと思う。
僕は考えた。
考えに考えた。
ず〜と考えてた。
たぶん馬鹿げてる。
たぶん「意味ないじゃん」
そう、確かに「意味」はないのだ。
でも考えてしまう。
僕の理論では最終形は暴力だった。
でも本を読んでて考えが変わった。
僕は今までもがいてきた。
っていうか、こういう書き方やめよう。
書くならもっと面白いこと書こう。
昨日は友達を成田に送り出すのに往復500KM走った。
それでも友達は
「そんなの当り前ジャン」みたいな顔してた。
車持ってるんなら、送ってよ。フツージャンみたいな感じ。
まぁいいか、って思った。
送らない事も考えた。
だって朝まで飲んでて、午後は東京見物させて、午後6時に家に帰って、
午前2時まで寝てそこから東京に向けて出発なんて馬鹿げてる。
上野で荷物載せて成田行って、帰りは友達を川口まで送って、
それがまた渋滞になっちゃって、首都高の道わかんなくて、
ふっと横見ると友達はZZZZZ。。。。。
それでもまぁいいっか、って思った。
友達が成田に行く前にナビしてくれたけど、
道間違えまくって、首都高結局3回乗り直した。
それで2000円。
外環も間違えた。それで1000円。
色々、金使ってそれで結局昨日は2万くらい使った。
馬鹿げてるなぁ、送り迎えだけなのに。
でもまぁいいっか、だね。
友達が金1000円だけ出してくれたけど、
「成田に間に合わなかったら宿泊代出してね」
だって。
すごいと思った。
こっちはわざわざ500km走って送迎してるのに、
2万も出してるのに、たった1000円出して、それは冗談にも
きついだろ。
でもまぁいいか。
それでそれは昨日の話。
今日はおばあちゃんが自分の家に遊びにきてたので、
それを東京までまた車で送るために、さらに300km。
ほんとクレイジーだ。
まぁいいか、の連続。
なぜにも僕がここまでまぁいいかでやり過ごせるのかは、
きっと忙しい事で自分が救われているのを知っているから。
一人になって考え出すと止まらなくなる。
それが怖い。
一人になる事は別にいい。
考えてしまうのが怖い。
それはきっとまた暴力に戻ってしまいそうな気がするから。
でも、今日のテーマは変化だけど、
自分は今まで運命に逆らって、逆らうようにして生きてきた。
でも流れてた。運命は僕にとってはオレンジ色。
それがむかついた。
僕は全てを黒くしてやろうと思い、反抗してた。
そしてもがいても出ない結果に「運命には逆らえない」という
結論を出してしまった。
それが真実かもしれない。
でも、世間ではそういった答えは望まれない。受け入れられない。
世間では「夢は叶う」「努力は報われる」「継続は力なり」だ。
プラスの方向を向いていないと意味がない。
そして将来の事や、戦争の事なんかを考えていることは、
「意味がない」ことなんだ。
まぁ結論。
自分が変われば運命は変わる。
僕は今まで自分が変わらないから、どこ行っても周りの反応が同じで
それで嫌気が差してた。
でも、自分の気持ちをいじるという最も簡単で身近なことを
想像もしていなかった。
だってそれは辛いもの。
でも、僕は、そもそも答えなんて探すのを止めようと思っている。
大人の社会はあいまいな社会。
妥協の社会
譲り合いの社会。
それを受け入れられる人がオトナ
僕は、もう、ずべてがしっちゃめっちゃか
あぽぽぽぽぽぽぽ〜〜〜〜ってなってきた。
でも危なくない感じだ。
僕の頭の中はピ〜ンクになりかけている。
文が死んでいる。
そして僕自身も。
生きる意味は?
そんなことを考える事もなく、僕は明日も飲む。
そしてギターを弾く。
テレビを見る。
そしてちょっとだけ努力をする。
そんなもんだ。
人生とは?
バカになるっていいね〜