やっと音楽話。
2002年8月23日今日はずっとギター弾いてた。
僕はもうプロを諦めて、半年が経つ。
それからはやはり練習時間は減った。
でも、音楽をより楽しめるようになった。
当然、音楽の中身もより素晴らしいものになっている。
なぜならば、
音楽とは人の心を音で表すという行為だからだ。
僕の友達はプロ思考が多い。
そしてその友達に僕は聞く。
「最近練習してる?」
「あんましてないね〜」
「練習しなきゃ、弾けないべ」
「おれは感覚で弾いているから」
「あ、そう、そりゃいいね」
「うん、まぁね」
こんな会話です。
たぶん僕のほうがプロに近いと思う。
なれると思う。
でも、ならない。
僕がプロになっても、2流止まりだ。
僕は新しい事が好きだ。
その新しい事は音楽ではできない。
音楽はもう死んだんだ。
それは明らかだ。
音楽は、今後「こういうジャンル」
とかという話にならないだろう。
「ジェフベックは最近、ラテンをやっているらしいぜ」
そしてラテンのギターを聞きたいと思えば
ジェフベックのCDを手に取る。
つまりは、
もう誰もがラテンなんてやってるんだ。
HMVのラテンコーナーに行く事さえ、
バカバかしく思えてくる。
僕は人から
「何是そんなに練習するの?」と言われる。
良く言われる。
なぜか。
下手だから。
ギターを7年もやってきてまだ全然わかっていない。
この「わかる」と言う行為はおもしろい。
頭でわかっているなら、僕はかなりの理解者だろう。
でも体でわかっていない。
だからまだまだ、だ。
でも僕の根幹を支えているのはイメージだろう。
うまくなったときの自分のイメージ。
プロの先生は良く言う。
「もう練習はしない」と。
練習をしないでもいけるレベルがあるらしい。
僕にはそれが信じられないが、
自分よりも先生のほうが圧倒的にうまいので、
その言葉も真実のような気がする。
それでは、
そのギターを人生に当てはめたらどうなるのか
「もう人生で学ぶ事はない」
こんなレベルはあるのだろうか。
僕は「たぶんある」と思う。思いたい。
僕にはそれがイメージできる。
だからこそ今、僕は走っている。
悩んでいる。孤独でいる。
その孤独をギターにぶつける。
ピアノを連打する。
そしてそっと、心が休まるんだ。
僕はもうプロを諦めて、半年が経つ。
それからはやはり練習時間は減った。
でも、音楽をより楽しめるようになった。
当然、音楽の中身もより素晴らしいものになっている。
なぜならば、
音楽とは人の心を音で表すという行為だからだ。
僕の友達はプロ思考が多い。
そしてその友達に僕は聞く。
「最近練習してる?」
「あんましてないね〜」
「練習しなきゃ、弾けないべ」
「おれは感覚で弾いているから」
「あ、そう、そりゃいいね」
「うん、まぁね」
こんな会話です。
たぶん僕のほうがプロに近いと思う。
なれると思う。
でも、ならない。
僕がプロになっても、2流止まりだ。
僕は新しい事が好きだ。
その新しい事は音楽ではできない。
音楽はもう死んだんだ。
それは明らかだ。
音楽は、今後「こういうジャンル」
とかという話にならないだろう。
「ジェフベックは最近、ラテンをやっているらしいぜ」
そしてラテンのギターを聞きたいと思えば
ジェフベックのCDを手に取る。
つまりは、
もう誰もがラテンなんてやってるんだ。
HMVのラテンコーナーに行く事さえ、
バカバかしく思えてくる。
僕は人から
「何是そんなに練習するの?」と言われる。
良く言われる。
なぜか。
下手だから。
ギターを7年もやってきてまだ全然わかっていない。
この「わかる」と言う行為はおもしろい。
頭でわかっているなら、僕はかなりの理解者だろう。
でも体でわかっていない。
だからまだまだ、だ。
でも僕の根幹を支えているのはイメージだろう。
うまくなったときの自分のイメージ。
プロの先生は良く言う。
「もう練習はしない」と。
練習をしないでもいけるレベルがあるらしい。
僕にはそれが信じられないが、
自分よりも先生のほうが圧倒的にうまいので、
その言葉も真実のような気がする。
それでは、
そのギターを人生に当てはめたらどうなるのか
「もう人生で学ぶ事はない」
こんなレベルはあるのだろうか。
僕は「たぶんある」と思う。思いたい。
僕にはそれがイメージできる。
だからこそ今、僕は走っている。
悩んでいる。孤独でいる。
その孤独をギターにぶつける。
ピアノを連打する。
そしてそっと、心が休まるんだ。
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