人
2002年8月21日人と人間の違いは何だろう。
今まで一ヶ月おばあちゃんのうちにお世話になってきた。
武蔵野は東京にあって、緑も豊かでとても好きだ。
特に、「多摩湖自転車道」という道は
その名の通り自転車専用道路だが、マラソンやウォーキングをする人が多く、
そこを通ってバイトをしに行く瞬間だけが、僕のささやかな喜びだった。
そこには「自分は東京にいる」と言う自尊心を満たせたし、
また「東京のゴミゴミした所がない」ということで自分には合っている気がした。
僕はバイトで好きな子がいた。
彼女は、バイトの最終日に普段なら5時までやるのを突然10時ころに姿を消し、
僕にはサヨナラの言葉一つさえなかった。
僕はそれを本当に事故なのか、もしくは計算され尽くした人間の愚かさなのかを
確かめたくて、もう一度そこのバイトで彼女を待ってみようと心に決めて、
それがその希望だけが、僕にとっての唯一の生きる希望だったんだ。
でもそれも今日、破綻した。
東京に住むのに僕は、おばあちゃんの家にお世話になっている。
そのおばあちゃんが「もう帰れ」通告をしてきたのだ。
僕は、おばあちゃんの事も好きだった。
父親にはない許容量と優しさがあるように思えた。
僕はそれを、自分自身の中で勝手に勘違いをして、
「僕のことをわかってくれている」とさえ、思ったんだ。
でもそれは大きな間違いだった。
おばあちゃんにはそんな意味はなかった。
おばあちゃんはそれこそ、僕が家にいるだけで疲れてしまうと言う事を
わざわざ手紙にして、僕によこした。
年齢の差が大きくて少し疲れました。
明日は、茨城から東京の家まで送ってください。
荷物は全部持っていってもらいます。
この手紙で、僕は一人になった。
本当に本当に、自分の中で、ある価値観を育てる事で自分を支えてたものが
その価値観を実行できなくなる環境が自分の周りに用意周到に
出来上がる事に、計算され尽くして出来上がる事に、強い憤りを覚えたし、
絶望した。
おばあちゃんは頭がいい。
それが逆に嫌だった。
おばあちゃんはもう80.
僕は、自分の理想系をどこかおばあちゃんの中に探してきた。
自分が80になった時には、きっと、きっとって。
でも、それも無駄だった。
全ての老人が「新しい答え」を見つけたわけでもなく、見つけられるわけでもない。
そもそも僕みたいに自分の中に強烈な劣等感があれば、ある人ならば、
「なぜ、なぜ」を自問自答する日々に、やがて答えが見つけられる
可能性はあるかもしれない。
考える事で、それは苦しい事だけれど、僕は一歩一歩答えに近づいている
と思えるんだ。
でも、僕のおばあちゃんは、父親はそういうタイプではなかった。
ごくごく普通の人間だった。
人と人の間では生きられる。でも間でしか生きられない人たちだった。
彼らはきっと、劣等感と言うものがないのだろう。
あれば僕は、わかるから。
彼らは答えを見つけている。その答えは愛だろう。
しかし、その彼らの答えの「愛」から生み出された僕は、
決して彼らが望んだ「答えとしての証明」にはなり得ないものだ。
彼らの答えから生まれた僕は、その答えが違うと思わざるを得ない、
歪んだ心の持ち主だった。
この僕の心を理解するのに親やおばあちゃんは
「親と正反対に生きる子供像」や「思春期の反抗」という肩枠に僕をはめて
理解しようとする。
それはなぜか。
答えは楽をしたいから。
そして、自分たちを自己嫌悪させないから。
それは、自分たちが劣等感を持ち得ないために、起こりうることで、
劣等感の欠如は、それ自体は「愛」を手に入れるのに大事な事だけれども、
その欠落は愛というものの味を薄くしてしまって、
僕にはその、答えとしての愛の、彼らの答えの、その表面上で起きている
寒々しさが、くっきりと見えすぎてしまっている。
それは僕がもっていて、彼らが持っていないから。
でも、その弊害が僕を苦しめ、持っているからこそ才であり、
持っているからこそ欠如であり、害である。
僕の親やおばあちゃんは、海の浅瀬で泳いでいる人々。
そこには怠慢な風が流れ、心地良いくらいの苦労がある。
しかし、安全でそこは空を見渡せると言う素晴らしい環境にある。
その生ぬるさに、自己嫌悪を覚えてしまわない人々にとっては、
そこの「愛ある場所」は、一種の理想郷に映ったに違いない。
僕は今深海にいる。
そこにはもはや波も存在しない。
ぽっかりと開いた虚空に見を委ねながら、落ちていく自分を悲しみながら、
虚しさだけが募る空間。
心にちょうど良く響く重低音が、僕の心に直接響いてきて、それは悲しみや
怖さを増大するのにちょうどよい音量のまさに神が創ったかのような
威厳さえそこにはある。
しかし、その音さえも今の僕には超越した虚しさがあって、
「そんなものではへこたれんぞ」という観念のなさと虚しさがおりなす
その色彩は明らかに汚物の吐き気を催すくだらない水彩画でしかない。
僕はまた一人だ。
一人になる事の怖さにまた泣いた。
もう、彼女に会えない事に泣いた。そこには僕が探しているのとは
逆のベクトルの永遠があるし、そのポッカリ開いた穴は
僕の中で、全てを投げやりにしてしまう虚無感が充満した無の境地だった。
僕の心を支えた友達さえも
僕は自分の意志とは逆に、今度は自分がユダにならなければいけないという
事に自分の運命を呪い、そして自分の人生の愚かさに泣いた。
僕は人間が織り成す怨念と愛、そして愚かさから生まれた色彩で、
その色調を、今の僕の気持ちがどうであるかを一言で表すならば
それは
ぐちゃくちゃ
としか言えないだろう。
コメント