学生時代にわかったこと
2002年6月27日今日の朝のニュース。
何の事件か忘れたが、アナウンサーが言っていた言葉が一日中頭の中を駆け巡っていた。
そのアナウンサーがじかに取材に行ってきて、
その興奮をお茶の間に伝えていた。
「いや、ホントに勉強になりました。
実際に現場に行かなければわからなかったことなので」
だそうです。
昔の自分なら「くやしい」と思っていただろうな、
と思って。
だって「自分の経験してない事」を「すでに他人が経験している」のは悔しいから。その人のほうが自分よりも「最後の答え」に何か近いような気がして、居たたまれなくなってたろうね。
でも今はちがう。
自分の中で、価値観が少しずつだけど変わってきている。
昔はなんでも知りたかった。
自分にどんな才能があるのか。
あの人の過去は。
自然現象を解明するために物理学部まで入った。
でも今は、「なるがままにしかならない」
と言う事がわかってきて、あんまり欲がなくなった。
そういう意味では桜井の
高らかな望みはのっけから持ってない
でも、だからと言って将来をあきらめる気もない
by 「one two three」
と同じだ。
でも、じゃあこの世界の物事はホントになるが
ままにしかならないのか?と言われるといまいち人に説明できるほど確信がない。
また「なるがままにしかならないだろうな」
と思いつつも、じゃあ黙って突っ立ってるのかと言われるとそうじゃなく、
僕は脇目も振らずに、
他人を追い越すため、
自分を成長させる為に
がむしゃらになって目を血走らせるだろう。
ただ言えるのは「知った後がつらい」
ということだけ。
だから、今は他人がどう生きようが、
何を経験しようが、
イチローがメジャーリーグ行って素晴らしい経験をしてようが、
日本代表がベスト16行って選ばれた人間しか
行ける事のない場所に行ったとしても、
僕はうらやましいとは思わない。
だって彼らは僕が経験している世界を絶対に経験する事ができない。
仮にできたとしても今の僕以上に彼らは「僕」として活躍できるだろうか?
逃げ出さないだろうか。
たぶん逃げ出すだろう。
僕はそれほどの確信を自分の中に持っている。
何でも知りたがったのは、自分を見つけたかったからだ。
でも、そんなもの遠くの彼方にはなかった。
今ここにいる、僕が背負っている「重み」こそが
僕自身しか経験する事ができない素晴らしいものだとわかったんだ。
そして僕は「その他人よりも重い鉄球」を鎖につながれて、
あたかも囚人のような環境にありながら、ここまで他人と同じペースで走ってきた。走ってこれた。
だから僕にはもうあまり「何かを知る」必要性がなくなった。
僕は音楽とサッカーとそしてこの心でこれからの世界を乗り切れるんじゃないかって思うんだ。
ただ僕が社会に出た時に、自分の考えが受け入られないこともあるだろう。
非難される事もあるだろう。
その時に、僕がその「他人の言う事」と「自分を信じる気持ち」を天秤にかけて、前者が重くなってしまわないかどうかがちょっと不安だ。
「社会」というデータが自分に不足している為に
不安な気持ちになるのだろう。
だけど大事なことは
「社会という名のデータ」
を根こそぎ集める事ではなく、
つねに「自分自身を信じる気持ち」
が重ければ僕はいつだって僕なんだ。
その精神的な鍛錬を僕は今しているんだ。
そしてその鍛錬は、決して終わる事のない、
休む事の許されないものなんだろう。
人生に休みなんてないんだ。
人は常に走っていなければならない。
それがこの学生時代にわかったなのだろう。
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